概要
1. 日本人としての
アイデンティティを育むことの
必要性
現在、学校教育では日本人としてのアイデンティティの醸成が求められています。たとえば、平成29年に告示された音楽科の学習指導要領の解説書でも「日本人としてのアイデンティティ」を育むことが明記されています。
ナショナル・アイデンティティは、政治学の分野でも社会の二極化、世界各国で頻発する民族紛争など、グローバル化によって生みだされた負の側面を打開する方策の一つとして議論されています。これは、「①各国が諸民族・多文化を尊重し共存するシステムを構築する。②民主的国家同士が対等な関係を築く。③これにより、諸民族・多文化が共生できる国際社会が実現できる。」とする考え方です。
しかし、これまでの音楽科教育では、ナショナリズムは否定的にとらえられる傾向が強くみうけられました。その理由は大きく二つにわけられます。一つは、第二次世界大戦以前の日本の教育のなかで、唱歌を通じて子どもたちに忠君愛国や戦争賛美などの精神を育もうとしてきたこと、結果として、それが戦争に利用されてきたこと、に起因するものです。もう一つは、外国にルーツをもつ子どもたちのアイデンティティを不安定なものにする、という考え方です。
しかし、これはナショナル・アイデンティティに対する誤った見解です。ナショナル・アイデンティティの育成は、そのあつかいを間違わなければ、諸民族・多文化が共生できる国際社会の基盤となりうるのです。ここでは、(1)国家成立、(2)自由民主主義、(3)諸民族・多文化を尊重する精神の基盤、という三つの観点から説明します。
(1)国家成立の基盤
「日本」を成立させているのは、「日本らしさ」という文化的概念です。ナショナル・アイデンティティとは、一般的に「国民が共有している」「国民が愛着を有している」と理解されている同質性の高い文化のことをさします。たとえば、日本人と韓国人、中国人の多くは、その顔を一見しただけでは、見分けがつきません。三者は、言語、話し方、行動の仕方、考え方、習慣などの文化が異なっているからこそ区別ができるのです。世界中の人々が、同じ言語、同じ情動、同じ行動様式、そして同じ文化を有する世界を想像してください。日本人という枠組みはなくなってしまいます。つまり、「日本らしさ」という文化的概念、すなわちナショナル・アイデンティティがあるからこそ、日本人、そして日本という国は存在しているのです。
(2)自由民主主義国家の基盤
自由民主主義国家において求められるのは、平等な社会の実現です。そして、その基盤となるのが、国民の間に育まれる連帯意識や仲間意識です。
税金を例に考えてみましょう。国家は、国民が納めた税金で、学校や公民館などの公共施設を整備したり、道路や水道などのインフラを整えたりします。また、税金は同じように子育て支援や生活に困っている人々への援助など、福祉の分野にも使われます。それでは、わたしたちがそのような仕組みを当然のこととして受け入れているのでしょうか。それは、国民間に連帯意識や仲間意識が存在しているからです。家族がお互いに支え合うのと同じですね。すなわち、自分の納めた税金が自分以外の人の生活の向上に使われることを納得し、受け入れることができるは連帯意識や仲間意識があるからなのです。
それでは、連帯意識や仲間意識は、どのようにして生まれるのでしょうか。そのみなもとは共通の文化です。わたしたちは、「同じ故郷」「同じ趣味」「同窓生」といった共通点に仲間意識をみいだしますね。つまり、共通の文化があるからこそ、連帯意識や仲間意識が生まれ、平等な社会を実現することができるのです。
(3)多文化を尊重する精神の基盤
世界の人々はそれぞれ異なる文化を持ち、それぞれの文化に対して深い愛着を抱いています。そのような文化への愛着があるからこそ、他国の人々が自国の文化に抱く思いに共感したり、尊重したりことができます。
オリンピックやワールドカップなどで優勝した国の国旗が掲揚され、国歌が演奏される場面を想像してみましょう。わたしたちは、それらに自然と敬意を払います。たとえ自国が敗れた相手であったとしても、です。なぜそのようなふるまいができるのでしょうか。それは、わたしたち自身が自国の国旗や国歌を大切に思っているからです。自らが自国の象徴に敬意を抱いているからこそ、他国の人々も同じであることを理解できるのです。
文化的な好みについても、同じことがいえます。たとえば、日本人が味噌汁に親しみや愛着を感じるように、タイの人々はトムヤムクンを、韓国の人々はチゲを愛しています。たとえ、自分の好みに合わない料理であったとしても、それらを「味噌汁よりも劣っている」と考えることはありません。それぞれが自分たちの文化を大切にしていることを理解しているからこそ、他の文化に対しても敬意を持つことができるのです。
2. ナショナル・アイデンティティの
形成と伝統文化の学習
それでは、ナショナル・アイデンティティはどのようにして形成されるのでしょうか。その重要な要素の一つが、教育です。わたしたちは学校教育を通じて、日本語、日本の地理、産業、歴史、音楽などを学びます。つまり、義務教育によって、日本という国がどのような特徴を持ち、どのような文化を築いてきたのかを共有しているのです。
このナショナル・アイデンティティの共有において、特に大きな役割を果たすのが「伝統文化」です。というのも、わたしたちが「日本らしさ」を感じる文化の多くには、何らかの伝統的な要素が含まれているからです。
たとえば、わたし自身は、おにぎりと味噌汁を「美味しい」と感じたときに「ああ、自分は日本人だなあ」と実感します。しかし、どれほど美味しいパンを食べても、そうした感覚を抱くことはありません。すなわち、わたしたちは、伝統を感じる文化に触れたときに「日本らしさ」を実感していることになります。
さて、ここで大切なのは、今、ここに生きるわたし自身、そして多くの日本人がおにぎりと味噌汁を「美味しい」と感じている事実です。わたしたちは「美味しくない」と思うものに、愛着を抱くことはありません。当然ですが、伝統は、そのすべてが継承されるわけではありません。わたしたちはすべての伝統文化に対して等しく愛着を有しているわけではないのです。だとすれば、ナショナル・アイデンティティとなりうるのは、愛着を感じ、かつ伝統的な文化をあつかうことが重要だということになります。
そこで、音楽科教育の教材として提案するのが、「郷土の音楽や芸能」です。日本の祭りを全くみたことがない、きいたこともない、という日本人はほとんどいないでしょう。太鼓の音や花火の音がきこえてきたら、ワクワクする人も多いのではないでしょうか。
もともと、日本の祭りは、先祖供養、五穀豊穣、家内安全、疫病退散などを願うものとして成立しました。これら祭りは、日本各地に点在しています。つまり、祭りに込められた願いは、日本人が有する共通の感覚だといえます。
本HPでは、郷土の音楽や芸能を中核にナショナル・アイデンティティを育む学習プログラムをご紹介しています。ぜひご活用下さい。