読み物資料
盆踊りをめぐる言説
盆踊りをめぐる言説をご紹介します。盆踊りが古くから日本の人々に愛されてきた文化であることがわかります。現在の盆踊りについては、インターネット上のコラムやブログなどを参考にするとよいでしょう。
田山花袋(1915)『田舎教師』左久良書房(pp.271-292)
八月が来ると、盛んな盆踊が毎晩そこで開かれた。学校に宿直していると、その踊る音が手にとるように講堂の硝子にひびいてはっきりと聞こえる。十一時を過ぎても容易にやみそうな気勢けはいもない。昨年の九月、清三が宿直に当たった時は、ちょうど月のさえた夜で、垣には虫の声が雨のように聞こえていた。「発戸の盆踊りはそれは盛んですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それじゃぜひ一度出かけてみなくってはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ、袖ぐらいちぎられてしまいますからな」と訓導の杉田が笑いながら言った。しかし清三は行ってみようとも思わなかった。ただそのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを 耳にしたばかりであった。(中略)盆踊りがにぎやかであった。空は晴れて水のような月夜が幾夜か続いた。樽拍子たるびょうしが唄につれて手にとるように聞こえる。そのにぎやかな気勢けはいをさびしい宿直室で一人じっとして聞いてはいられなかった。清三は誘われてすぐ出かけた。
盆踊りのあるところは村のまん中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まって来る。樽拍子の音がそろうと、白い手拭いをかむった男と女とが手をつないで輪をつくって調子よく踊り始める。上手な音頭取につれて、誰も彼も熱心に踊った。
小泉八雲(1927)「チェンバレンへあて」『小泉八雲全集第九巻』(pp.518-519)
1891年松江にて
それから私は山間の或村で舞踊を見ましたが、これは今日まで私の目撃した如何なる舞踊にも似てをらぬ物でありました……即ち或る物は遠い遠い太古の物で神秘的な雅致を多分に含んでをりました。私はそれを夜半迄熱心に見物しました。(中略)私は神道の象徴が田舎をぐるりと取り囲んでをるのに反して仏教の力が次第に内部へ内部へと入っていく事実を見いだしました。
折口信夫(1929)「盆踊りの話」『古代研究 第1部 第1 民俗学編』大岡山書店(p.332)
盆の祭り(仮りに祭りと言うて置く)は、世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言うて居るが、古代に於て、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。即、生魂・死霊の区別なく取扱うて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りなのだ。
盆は普通、霊魂の游離する時期だと考へられて居るが、これは諾はれない事である。日本人の考へでは、魂を招き寄せる時期と言ふのがほんとうで、人間の体の中へ其魂を入れて、不要なものには、帰つて貰ふのである。此が仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化せられて出来たものが、盆の聖霊会である。
北條民雄(1938)「戯畫」『北条民雄全集 上巻』創元社(pp.354-355)
さてそのお盆の夜のことだが、多田君はどうしても死なうと決心したのだつた。勿論お盆になつたから突然さういふ気になつたのではなく、もうながい間、ここへ来る前々から考へ続けてゐたことだつた。―全身の至る所に疵ができ、激しい神経痛に悩まされ、盲目になり、手足が脱落し、その果に肺病になるか腎臓をやられて死ぬ――これが病者の常道だと私も思つてゐるが、多田君もさう思つたのであらう。長い遺書を私やその他の友人にも書き、それを懐にして部屋を出ると、林の中を歩き廻り、立派な枝振りの木を見つけると早速首をくくる用意をした。とたんに盆踊りの太鼓が聞えだして、兎に角今夜は気が狂ふ程踊り抜いて、それからにしても遅くない、さういふ考へが一杯になつて踊場へでかけたのだつた。
踊場はもう何百人もの人出だつた。私もその中に混つて踊つたり見物したりしてゐたので識つてゐるが、平常単調極まる日々を送つてゐる病人達だから、踊りの夜はもう気違ひのやうなものだつた。大きな輪になつて、それが渦のやうに二重にも三重にも巻いてぐるぐる廻つてゐるのだつた。それを又足が不自由で踊れない病人達がぎつしり取り巻いて見物してゐた。中央に櫓が組まれ、音頭を取る者は、向う鉢巻や頬かむりで、太鼓を叩き、樽を撲つて囃すのだつた。私は最初この踊りを見た時、ひどく奇怪なものを感じたのだつた。第一どの踊子を見ても鼻がなかつたり手が曲つたりしてゐるのだから、初めてのものは誰でもさう思ふ。
寺田寅彦(1960)「田園雑感」『寺田寅彦全集 第2巻』岩波書店(p.242)
盆踊りというものはこのごろもうなくなったのか、それとも警察の監視のもとにある形式で保存されている所もあるかどうだか私は知らない。
私が前後にただ一度盆踊りを見たのは今から二十年ほど前に南海のある漁村での事であった。肺結核でそこに転地しているある人を見舞いに行って一晩泊まった時がちょうど旧暦の盆の幾日かであった。蒸し暑い、蚊の多い、そしてどことなく魚臭い夕靄ゆうもやの上を眠いような月が照らしていた。
貴船神社きふねじんじゃの森影の広場にほんの五六人の影が踊っていた。どういう人たちであったかそれはもう覚えていない。私にはただなんとなくそれがおとぎ話にあるようなさびしい山中の妖精ようせいの舞踊を思い出させた。そしてその時なぜだか感傷的な気分を誘われた。
その時見舞った病人はそれからまもなくなくなったのである。
私は今でも盆踊りというとその夜を思い出すが、不思議な錯覚から、その時踊っていた妖精ようせいのような人影の中に、死んだその人の影がいっしょに踊っていたのだというような気がしてしかたがない。
そして思う。西洋くさい文明が田舎いなかのすみずみまで広がって行っても、盆の月夜には、どこかの山影のような所で、昔からの大和民族やまとみんぞくの影が昔の踊りを踊っているのではあるまいかと。
盆踊りという言葉にはイディルリックなそしてセンシュアスな余韻がある。しかしそれはどうしても現代のものではない。その余韻の源にさかのぼって行くと徳川時代などを突き抜けて遠い遠い古事記などの時代に到着する。
盆踊りのまだ行なわれている所があればそこにはどこかに奈良朝ならちょう以前の民族の血が若い人たちのからだに流れているような気がしてしかたがない。そうしてそれが今滅亡に瀕ひんしているような悲しみを感ずる。
寺田寅彦(1961)「沓掛より」『寺田寅彦全集 第4巻』岩波書店(pp.386-387)
盆踊りといえば生来ただ一度、それも明治三十四五年ごろ、土佐のあるさびしい浜べの村で一晩泊まった偶然の機会に思いがけない見物をしただけで、それ以後にはついぞ二度とは見たことがなかった。そのころにはこういうものは、「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だというふうに考えられて、公然とはできないことになっていたように記憶する。それでも、都会離れたこの浦里などでは、暗いさびしい貴船神社の森影で、この何百年前の祖先から土の底まで根をおろした年中行事がひそやかに行なわれていた。なんの罪もない日本民族の魂が警察の目を避けて過去の亡霊のように踊っていたのである。それがこのごろでは、国民思想涵養かんようの一端というのであろうか、警察の許可を得て、いつのまにか復旧されて来たように見えるのである。(中略)
おかっぱに洋装の女の子もあれば、ズボンにワイシャツ、それに下駄の帳場の若い男もある。それが浴衣がけの頬ほおかぶりの浴客や、宿の女中たちの間に交じって踊っている不思議な光景は、自分たちのもっている昔からの盆踊りというものの概念にかなりな修正を加えさせる。それに蓄音機のとる音頭の伴奏の中には、どうも西洋楽器らしいものの音色が交じっているらしい。これも盆踊りの進化の一つの相である。そうして日本現代の一つの象徴でもある。(中略)
十五日の晩は雨でお流れになるかと思ったらみんな本館の大広間へ上がって夜ふけるまで踊り続けていた。蓄音器の代わりに宿の女中の一人が歌っているということであった。人間のほうが器械の声よりもどんなに美しいか到底比較にならないのであるが、しかしいわゆる現代人にはこの雑音だらけの拡声器の音でないと現代の気分が出ないというのであろう。夜のふけるに従って歌の表情が次第に生き生きした色彩を帯びて来た。手拍子の音が気持ちよくそろって来るのは妙なものである。
火野葦平(1962)「花と龍」『現代長編文学全集 第22』講談社(p.6)
この夏の盆踊りの晩であった。草深い山峡の部落では、盂蘭盆会うらぼんえは、若い男女が思いきり羽をのばす唯一の祭である。盆踊りは、柿ノ坂という、養蚕のさかんなことで有名な部落の仲蔵寺ちゅうぞうじで行われる。谷口家先祖代々の墓も、この寺にあった。
柳田国男(1965)「浜の月夜」『現代日本思想大系 第29』筑摩書房(p.362)
この辺では踊るのは女ばかりで、男は見物の役である。それも出稼ぎからまだもどらぬのか、見せたいだろうに腕組でもして見入っている者は、われわれを加えても二十人とはなかった。小さいのを負ぶったもう爺が、井戸の脇からもっと歌えなどとわめいている。どの村でも理想的の鑑賞家は、踊りの輪の中心に入って見るものだがそれが小子内では十二、三までの男の子だけで、同じ年ごろの小娘なら、皆列に加わってせっせと踊っている。この地方ではちご輪見たような髪が学校の娘の髪だ。それが上手に拍子を合わせていると、踊らぬ婆さんたちが後から、首をつかまえてどこの子だかと顔を見たりなんぞする。
われわれにはどうせ誰だかわからぬが、本踊子の一様に白い手拭で顔を隠しているのが、やはり大きな興味であった。これが流行か帯も足袋も揃いの真白で、ほんの二、三人の外は皆新しい下駄だ。前掛は昔からの紺無地だが、今年初めてこれに金紙で、家の紋や船印を貼り付けることにしたという。奨励の趣旨が徹底したものか、近所近郷の金紙が品切れになって、それでもまだ候補生までには行き渡らぬために、かわいい憤懣がみなぎっているという話だ。月がさすとこんな装飾が皆光ったり翳ったり、ほんとうに盆は月送りではだめだと思った。一つの楽器もなくとも踊りは目の音楽である。四周が閑静なだけにすぐに揃って、そうしてしゅんでくる。
折口信夫(1967)「身毒丸」『折口信夫全集 第17巻 (芸能史篇 第1)』中央公論社(p.518)
田楽師はまた村々の念仏踊りにも迎へられる。ちようど、七月に這入つて、泉州石津の郷で盆踊りがとり行はれるので、源内法師は身毒と、制吒迦童子とを連れて、一時あまりかゝつて百舌鳥の耳原を横切つて、石津の道場に着いた。其夜は終夜、月が明々と照つてゐた。念仏踊りの済んだのは、かれこれ子の上刻である。呆れて立つてゐる二人を急き立てゝ、そゝくさと家路に就いた。道は薄の中を踏みわけたり、泥濘を飛び越えたりした。三人の胸には、各別様の不安と不平とがあつた。踊り疲れた制吒迦は、をりをり聞えよがしに欠をする。源内法師は鑢ででも磨つて除けたいばかりに、いらいらした心持ちで、先頭に立つてぼくぼつと歩く。久かたぶりの今日の外出は、鬱し切つてゐた身毒の心持ちをのうのうさせた。けれどもそれは、ほんの暫しで、踊りの初まる前から、軽い不安が始中終彼の頭を掠めてゐた。彼は、一丈もある長柄の花傘を手に支へて、音頭をとつた。月の下で気狂ひの様に踊る男女の耳にも、その迦陵頻迦のやうな声が澄み徹つた。をりをり見上げる現ない目にも、地蔵菩薩さながらの姿が映つた。若い女は、みな現身仏の足もとに、跪きたい様に思うた。けれども身毒は、うつけた目を睜つて、遥かな大空から落ちかゝつて来るかと思はれる、自分の声にほれぼれとしてゐた。ある回想が彼の心をふと躓かせた。彼の耳には、ありありと火の様なことばが聞える。彼の目には、まざまざと焔と燃えたつ女の奏が陽炎うた。
坂口安吾(1968)「禅僧」『定本坂口安吾全集 第1巻』冬樹社(pp.389-390)
お綱の逸話では、煙草工場の女工カルメン組打の一場景に彷彿としたこんな話もあるのだ。
時は盆踊りの季節。ひと月おくれの八月の行事で、夏の短い雪国では言ふまでもなく凋落の季節、本能の年の最後の饗宴でもある。盆踊りは山の頂きのぶなに囲まれた神社の境内で、お綱も踊りに狂つてゐた。その日のホセは道路工事の土方で、居酒屋で酒をのみながら、店の老婆を走らしてお綱を迎ひにやつたが、お綱は踊りに狂つてゐて耳をかさうともしなかつた。
さうかうするうち踊りの列に異変が起つた。突然お綱が一人の娘を突き倒して、馬乗りになり、つかむ、殴る、つねる、お綱には腕力があるから、娘の鼻と唇から血潮が流れでた。原因といふのは、お綱が踊りながら女に向つて、お前の色男が俺に色目をつかつたよとからかつたところから、この娘がやつきになつて俺の色男はお妾あがりに手出しをしないよ、そこでお綱がカッとしてこの野郎と組ついたといふ次第であつた。娘の顔を血まみれにしては、お綱が人々に憎まれたのも仕方がなかつた。
織田作之助(1969)「夫婦善哉」『日本文学全集 第72』集英社(p.49)
十日目、ちょうど地蔵盆で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行燈の明りに顔が映えて、眩しそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
山本周五郎(1971)「青べか日記―吾が生活 し・さ」『わが人生観28』大和書房(p.217)
盆踊りを見て来た。踊りには一定の「振」はない。ただ男と女とが密接して環をなし、躰を揉み合うようにして廻り乍ながら唄うのである。唄には独特なものはなく、然しかも三種位の節があって、「環」毎に節が異なっている。殊ことに面白いのは娘共が大変に元気で、音頭取りをやっていることである。非常にワイルドで、また極めて肉感的である、情欲そのままである。月はない、娘達も若者達も全く何のこだわりもない、解放されている。露深い草地に営まれるであろう彼等の愛に祝福があるように。さて寝よう。末子よ卿によき夢があるだろう。
片岡義男(1979)「シュガー・トレイン」『ブルー・パシフィック・ストーリーズ:波乗りの島』角川書店(p.177)
寺の広場では盆踊りがおこなわれていた。芝生の生えた広いスペースが寺の正面にあり、両わきは熱帯樹の林で黒い影になっている。広場の前は町を遠くはずれた田舎道だ。広場の中央に、背の高い椰子の樹が二本、寄り添うように立っている。その椰子の樹に寄せて、盆踊りのやぐらが組んであった。
やぐらから周囲の熱帯樹やお寺の建物にロープが張り渡され、明かりの灯った提燈がいくつも華やかに下がっていた。日本の歌のレコードが鳴り、きれいな色の浴衣を着た女性たちが、デモンストレーションの踊りを見せていた。人々が輪になってやぐらを囲み、楽しそうに踊りを見ていた。
今夜の寺は忙しい。日本から派遣されてこのお寺にいる僧侶は、五〇年代のダッジ・ダートを駆って檀家めぐりだ。奥さんは、手伝いに来てくれている近所の日系の老婦人たちを指揮して、冷たい飲み物や寿司、サンドイッチ、照り焼などを用意している。
田端修一郎(1980)「盆踊り」『田畑修一郎全集 第三巻』冬夏書房(p.318)
夕方になると町のどこかゝら前觸れの太鼓の音が聞えて來る。まだ明い青味のある空を見上げて、その音のする方角を確めながら、今夜は染羽ではじまるさうだ、とか、新丁だとかいふやうなことを話し合ふ。ビラが町の所々に貼り出されることもあるが、さうでなくとも町中にすぐ知れ渡つてしまふ。
そゝくさと夕食を喰べると、私達子供はまだ暗くならないうちから踊りの場所へ出かける。それはお寺の境内のこともあるし、一寸した曲り角の廣場や、通りのまん中でやることもあつた。若い者が四五人でやけに太鼓をたゝいてゐる。まだ人が集らないのだ。間もなく咽喉自慢の男が、たいてい四十か五十の年配だつたが、臺の上に立つて、番傘をひろげて、片手にふるまひ酒の入つた茶碗を持つて、音頭をうたひはじめるのであつた。
最初のうちはちよろちよろした七つだの八つ位の女の子達が鼻筋にお白粉をつけて、音頭臺のまはりをうろ覺えに踊つてゐるだけだ。暗くなると、どこからか顏をかくして誰だか判らない踊り手が、女だの男だの老人だのがぞろぞろと出て來る。その頃にはまはりは見物人で一杯になる。
どういふわけか、私が物心ついた頃には變裝が盛んで男は女に化け、女は男の格好をするのがはやつた。股引に袢纒、頬被りといふ凝つた職人姿は藝者が多かつた。(中略)
この盆踊りも私が二十歳時分には段々とやかましく取締られるやうになり、最近又盛んになつたとも聞くが、風紀のこともこの頃ではさう心配することはあるまいと思ふ。弊害よりもその與へる樂しみの方がはるかに大きいだらう。私なんかは、今もつてあの踊りの美しさを忘れかねてゐるし、東京に住んで思ひ出したゞけでも幸福な氣持になるのである。